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前・後編通して拝聴しました。このクオリティの講話を無料で視聴出来ることに感謝します!自身を取り巻くもの(他者や環境等)に不満を感じる前に自身にフォーカスして”学ぶ”ことを最優先すべき、との趣向と理解し全くその通りと感じます。片や、”学ぶ”ことの難しさとして、同じ書物や講義を受けても解釈が違うことが多々あることですね。大場先生も取り上げている真木和泉のように会沢正志斎の新論を読んでも攘夷部分を誇大解釈したり。。何事も”腹八分”(盲目になりすぎない)に捉えて生活するのがよいのかな?と感じて日々過ごしている次第です。大場先生の動画UPを楽しみにしていますので、ご多忙でしょうがよろしくお願いします。
面白い話やわ。松陰のことを勘違いしてましたわ。話楽しいわ。こんな大学講義なら楽しいよね☺️
久々に気持ちが明るくなるお話でした。国士舘大学、ステキです。
非常に有意義な鼎談でした。ありがとうございました。私が大場先生の水戸学の話を聞いてから、『新論』を読み、それで民主政に疑問を持つようになったことから、『社会契約論』を読みました。その結果、民主政について否定的な考えになったのですが、古川雄嗣氏とのご対談で、中江兆民が儒教の文脈で『社会契約論』を解釈したという話を聞いて、民主政に対する理解がまた改められました。前置きが長くなりましたが、民主政は決して「多数決」ではないということ。寧ろ、国民が儒教に学び個を確立することで「士民」になること。そして国家の在り方に関心を持つ人間になること。決して、政治家任せの人間にならないこと。その上で、家庭や地域社会において自分の役割を果たすことで、誰かの役に立ち、社会の役に立つこと。それが引いては国家を支えることになるのだということ。つまり、吉田松陰のような生き方が、民主政そのものではないかと今回の鼎談で理解しました。もしかしたら「草莽崛起」とは国民全員が「士民」となって、世のため人のために行動するのだ!と呼びかける言葉なのかもしれないと思いました。私も儒教を修養したいと考え実行に移しています。また、大場先生から直接教えを頂きたいと強く思っております。ご講演等がございましたら、是非とも参加したいです。今後の動画配信も心より期待申し上げます。
昭和54年入学58年卒業です。在学中こんないい話しを聞きたかった。国士舘卒業して良かった。初めて思いました。
単純に聞いてて楽しかったです!吉田松陰の時代と情景を想像すると本当にとてつもなくダイナミックでパッション 情熱的な人がたくさんいた時代なんだなとしみじみ思いました
それぞれの個性と感性が煌めく鼎談✨心地のよい時間でした
勉強になります。感謝🙏
素晴らしい講義をご提供いただきありがとうございました。
なんという面白さ!
学びたい内容をありがとうございます
色々気付かされました。ありがとうございます。新井白石の正徳の治、松平定信の寛政の改革。経済史的には失政の感があったが、政治思想史的には有意機であったと思う。改めて現代と照らし合わせて考えてみたいと思います。
とても面白く視聴しました。チャンネル登録させていただきました。ありがとうございました。
大場さん、もっと見たいです
近代経済が債務と欲望を媒介として個人を農村共同体から引き剥がした。しかし重要なのは農村共同体は決してユートピアではなく、イエ制度の下、個人の人権は蔑ろにされていた。しかしまた、人は一人では生きていけないのも事実。考えます。
箱根駅伝によく出てますよね。甲子園にも。
嗚呼 晴
吉田松陰は日本の偉人とされています。しかし松下村塾はかれのおじさんが開いております松陰はほか数人の遊び人が聴講していました。幕末から明治の偉人は本質を知るとテロリストではありませんか?
皇室を利用した簒奪者ではあるけどそれを抑える力がなかった=当時の政権と仕組みは限界だった清や朝鮮の変容と同時期まで幕府が保っていればここまでの精神の断絶は引き起こさなかったかもしれないですね。(でもタイミング的に共産主義に引き込まれそうだしやっぱりどうしようもない)
逆です。手段と本質をはき違えてはいけません。そもそも世襲軍事独裁政権に対して武力を使うことをテロとは言いません。あなただって彼らのおかげで人間として生きているのであって、彼らがいなければ武士に蹴られながら生きているはずだったのです。ちなみに吉田松陰は一人も傷つけていないし殺してもいません。明治の偉人たちに土下座して感謝すべきです。
松平定信の続編、首を長くして待ってます。
素人質問で恐縮ですが、明るくいきいきというのは松岡修造のようなイメージでしょうか。
周雖旧邦 其命維新 w
3者知識人達。あんまりポーッと思考しないほうがいいですよ。高野長英も、牢が白
背広はやめて、次からは紋付袴でお願いします。
知行合一でない人たち、不毛の鼎談😮😮😮
youtubeで批判しかしないのも知行合一じゃないでしょw
とても面白いです。もちろんそんなことはわかっていると言われるのはわかっているのですが、あえて一応哲学的というか宗教的な観点からこちらの配信の全てを纏め結論をコメントさせていただこうと思うのですが、つまり国士舘が精神文明だと言っているのは国を永続する為の選択肢を国士舘は精神性に求めたというお話でしたが、その選択に至る日本の歴史や文学的な経緯などを皆様が整理してくださいました。そして問題提起として、語弊もあるかもわかりませんが、近代日本人が精神迷路に迷い込んでいるというお話で、そんな中でどうしたらよいのか、国士舘の建立理念にこそその答えがあるのではないかというお話であったかと思います。纏めと結論になりますが、吉田松陰も含めそれら日本の先人たちの持っている意識は国家共同体の一部としてどのように生を活用することができるのか、其の一点に尽きると思います。しかしなぜか迷い込んでいる日本人がいる。それはなぜか?それは、現実を生きていいない人々、或いは、悟っていない人々と言い換えても良いのかもしれませんが、そういう人々がものを教える立場に立ち嘘やまやかしを教えるからにほかなりません。道に迷うというのは、自分がどこにいるのかが分かっていないという意味であって、日本という意味で言えば、日本が今どういう状況なのかをわかっていなければ日本人が精神を迷わすことになるのは当然のことで、迷うような情報統制やあれこれをしているので、迷うのです。つまり、日本精神を語るのに、日本の歴史だけを見ていてもわかるわけがないのです。国際社会に目を向け、世界の歴史に目を向け、相対的な観点から日本とは何なのか?日本は今どうするべきなのか?日本人に今求められていることとは?現代日本人が日本人たる所作とはどういったものなのか?そういう視座を以てして精神文明を語らないと、道に迷い、精神文明が必要だ!で終わってしまうのです。精神文明が必要も何も、そんなものは人間が生れ落ちた瞬間から始まっているものであって、もちろん精神だけではどうにもならないこともみなさんご存じのとおりです。では、迷い込んだ日本人はどうしたらいいのか?それはかの偉人たちがしてきたように、見たいものを見て、周りに目を向け、できることをすればいいのです。足がない人は足がないなりに、疲れた人は疲れたなりに、許せないことがある人は許せないことがあるなりに、全ての人の生が何たるものであろうとも、日本人の全ては日本列島の記憶となり、歴史となり、咎となり、経験となり、知恵となり、活力となり、絶望となり、埋め草となるからです。故にこの日本列島において、日本にとって日本人の誰一人として意味のない存在のない、全ての人がその一人で何も欠けたもののないすなわちかけがえのない完全体そのものなのです。なので迷い込んでいるのだとしたら、支配階層が頭がおかしいだけです。ですので迷っている人にはこう言いたいです。「あなたが迷っているのは自分自身にではなく、居場所がわからないだけですよ。そのような阿保みたいな洗脳を行う大人たちが支配し続け世襲制で独裁体制を敷いて情報を統制しているからなのです!!」ではなぜそのような精神性に陥っているのか。それは、責任の擦り付けで自己防衛に走り弱者へ擦り付け、その場しのぎに徹する卑怯ものの集まりだからなのです。なのである。なのであーーーる!!
前・後編通して拝聴しました。このクオリティの講話を無料で視聴出来ることに感謝します!
自身を取り巻くもの(他者や環境等)に不満を感じる前に自身にフォーカスして”学ぶ”ことを最優先すべき、との趣向と理解し全くその通りと感じます。片や、”学ぶ”ことの難しさとして、同じ書物や講義を受けても解釈が違うことが多々あることですね。大場先生も取り上げている真木和泉のように会沢正志斎の新論を読んでも攘夷部分を誇大解釈したり。。
何事も”腹八分”(盲目になりすぎない)に捉えて生活するのがよいのかな?と感じて日々過ごしている次第です。
大場先生の動画UPを楽しみにしていますので、ご多忙でしょうがよろしくお願いします。
面白い話やわ。
松陰のことを勘違いしてましたわ。
話楽しいわ。
こんな大学講義なら
楽しいよね☺️
久々に気持ちが明るくなるお話でした。国士舘大学、ステキです。
非常に有意義な鼎談でした。ありがとうございました。
私が大場先生の水戸学の話を聞いてから、『新論』を読み、それで民主政に疑問を持つようになったことから、『社会契約論』を読みました。その結果、民主政について否定的な考えになったのですが、古川雄嗣氏とのご対談で、中江兆民が儒教の文脈で『社会契約論』を解釈したという話を聞いて、民主政に対する理解がまた改められました。
前置きが長くなりましたが、民主政は決して「多数決」ではないということ。寧ろ、国民が儒教に学び個を確立することで「士民」になること。そして国家の在り方に関心を持つ人間になること。決して、政治家任せの人間にならないこと。その上で、家庭や地域社会において自分の役割を果たすことで、誰かの役に立ち、社会の役に立つこと。それが引いては国家を支えることになるのだということ。つまり、吉田松陰のような生き方が、民主政そのものではないかと今回の鼎談で理解しました。もしかしたら「草莽崛起」とは国民全員が「士民」となって、世のため人のために行動するのだ!と呼びかける言葉なのかもしれないと思いました。
私も儒教を修養したいと考え実行に移しています。また、大場先生から直接教えを頂きたいと強く思っております。ご講演等がございましたら、是非とも参加したいです。今後の動画配信も心より期待申し上げます。
昭和54年入学58年卒業です。在学中こんないい話しを聞きたかった。国士舘卒業して良かった。初めて思いました。
単純に聞いてて楽しかったです!
吉田松陰の時代と情景を想像すると本当にとてつもなくダイナミックでパッション 情熱的な人がたくさんいた時代なんだなとしみじみ思いました
それぞれの個性と感性が煌めく鼎談✨心地のよい時間でした
勉強になります。感謝🙏
素晴らしい講義をご提供いただきありがとうございました。
なんという面白さ!
学びたい内容をありがとうございます
色々気付かされました。ありがとうございます。新井白石の正徳の治、松平定信の寛政の改革。経済史的には失政の感があったが、政治思想史的には有意機であったと思う。改めて現代と照らし合わせて考えてみたいと思います。
とても面白く視聴しました。チャンネル登録させていただきました。ありがとうございました。
大場さん、もっと見たいです
近代経済が債務と欲望を媒介として個人を農村共同体から引き剥がした。しかし重要なのは農村共同体は決してユートピアではなく、イエ制度の下、個人の人権は蔑ろにされていた。しかしまた、人は一人では生きていけないのも事実。考えます。
箱根駅伝によく出てますよね。甲子園にも。
嗚呼 晴
吉田松陰は日本の偉人とされています。しかし松下村塾はかれのおじさんが開いております松陰はほか数人の遊び人が聴講していました。幕末から明治の偉人は本質を知るとテロリストではありませんか?
皇室を利用した簒奪者ではあるけどそれを抑える力がなかった=当時の政権と仕組みは限界だった
清や朝鮮の変容と同時期まで幕府が保っていればここまでの精神の断絶は引き起こさなかったかもしれないですね。(でもタイミング的に共産主義に引き込まれそうだしやっぱりどうしようもない)
逆です。手段と本質をはき違えてはいけません。そもそも世襲軍事独裁政権に対して武力を使うことをテロとは言いません。あなただって彼らのおかげで人間として生きているのであって、彼らがいなければ武士に蹴られながら生きているはずだったのです。ちなみに吉田松陰は一人も傷つけていないし殺してもいません。明治の偉人たちに土下座して感謝すべきです。
松平定信の続編、首を長くして待ってます。
素人質問で恐縮ですが、明るくいきいきというのは松岡修造のようなイメージでしょうか。
周雖旧邦 其命維新 w
3者知識人達。あんまりポーッと思考しないほうがいいですよ。
高野長英も、牢が白
背広はやめて、次からは紋付袴でお願いします。
知行合一でない人たち、不毛の鼎談😮😮😮
youtubeで批判しかしないのも知行合一じゃないでしょw
とても面白いです。もちろんそんなことはわかっていると言われるのはわかっているのですが、あえて一応哲学的というか宗教的な観点からこちらの配信の全てを纏め結論をコメントさせていただこうと思うのですが、つまり国士舘が精神文明だと言っているのは国を永続する為の選択肢を国士舘は精神性に求めたというお話でしたが、その選択に至る日本の歴史や文学的な経緯などを皆様が整理してくださいました。そして問題提起として、語弊もあるかもわかりませんが、近代日本人が精神迷路に迷い込んでいるというお話で、そんな中でどうしたらよいのか、国士舘の建立理念にこそその答えがあるのではないかというお話であったかと思います。
纏めと結論になりますが、吉田松陰も含めそれら日本の先人たちの持っている意識は国家共同体の一部としてどのように生を活用することができるのか、其の一点に尽きると思います。しかしなぜか迷い込んでいる日本人がいる。それはなぜか?それは、現実を生きていいない人々、或いは、悟っていない人々と言い換えても良いのかもしれませんが、そういう人々がものを教える立場に立ち嘘やまやかしを教えるからにほかなりません。
道に迷うというのは、自分がどこにいるのかが分かっていないという意味であって、日本という意味で言えば、日本が今どういう状況なのかをわかっていなければ日本人が精神を迷わすことになるのは当然のことで、迷うような情報統制やあれこれをしているので、迷うのです。
つまり、日本精神を語るのに、日本の歴史だけを見ていてもわかるわけがないのです。国際社会に目を向け、世界の歴史に目を向け、相対的な観点から日本とは何なのか?日本は今どうするべきなのか?日本人に今求められていることとは?現代日本人が日本人たる所作とはどういったものなのか?そういう視座を以てして精神文明を語らないと、道に迷い、精神文明が必要だ!で終わってしまうのです。精神文明が必要も何も、そんなものは人間が生れ落ちた瞬間から始まっているものであって、もちろん精神だけではどうにもならないこともみなさんご存じのとおりです。
では、迷い込んだ日本人はどうしたらいいのか?
それはかの偉人たちがしてきたように、見たいものを見て、周りに目を向け、できることをすればいいのです。
足がない人は足がないなりに、疲れた人は疲れたなりに、許せないことがある人は許せないことがあるなりに、全ての人の生が何たるものであろうとも、日本人の全ては日本列島の記憶となり、歴史となり、咎となり、経験となり、知恵となり、活力となり、絶望となり、埋め草となるからです。故にこの日本列島において、日本にとって日本人の誰一人として意味のない存在のない、全ての人がその一人で何も欠けたもののないすなわちかけがえのない完全体そのものなのです。
なので迷い込んでいるのだとしたら、支配階層が頭がおかしいだけです。
ですので迷っている人にはこう言いたいです。「あなたが迷っているのは自分自身にではなく、居場所がわからないだけですよ。そのような阿保みたいな洗脳を行う大人たちが支配し続け世襲制で独裁体制を敷いて情報を統制しているからなのです!!」
ではなぜそのような精神性に陥っているのか。それは、責任の擦り付けで自己防衛に走り弱者へ擦り付け、その場しのぎに徹する卑怯ものの集まりだからなのです。なのである。なのであーーーる!!